演技が鳥肌がつくらい嫌いだった?!篠原涼子の女優になった理由【一周回って知らない話】

篠原涼子さん、また「ハケンの品格」で出演しますね!

篠原涼子さん出演のドラマで私が好きなのは「アンフェア」。カッコ良くてスタイル良しの女刑事。1990年代には、歌手としても活躍していたころは、小室哲哉さんプロデュースの「恋しさとせつなさと心強さと」がヒットを飛ばしていました。

そんな篠原涼子さんが「一周回って知らない話」に出ていて、実は演技が鳥肌が立つくらい嫌いだったという話をしていました。

篠原涼子イメージ

出典:https://eiga.com/person/34089/

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最初は歌手を目指していた

東京パフォーマンスドール(1994年9月卒業)の一人として、歌手活動をしていた篠原涼子さん。実は事務所と契約するときにはソロでデビューを約束されていたのに気づけば7・8人のアイドルグループでデビューしていて、心の中では不満だった様子。

いつ、ソロでデビューできるか見計らっていたそう。

そんな1994年、20歳の時の転機が。
当時無名だった篠原涼子さんは「小室哲哉」さんに見いだされます。

「小室さんがあなたを使いたい。ソロとしてプロデュースしたい」というオファーが。
そろって言うだけで本当に嬉しかったと言っていましたが、「でもなんで私なんで?」と思ったらしいんです。

当時小室さんは、すでにいくつか作曲済みの曲を持っていて、自分のイメージに合った歌手を探していたそうで、それがピッタリ篠原涼子さんに当てはまったんですね。

そして、東京パフォーマンスドールのライブにもたびたび足を運び、バラエティ番組「ダウンタウンのごっつえぇ感じ」での篠原涼子さんの活躍をみて、
「彼女なら負けん気があって何があってもくじけないだろう。」
ということで決めたんだそうです。

東京パフォーマンスドールのイメージ画像

 

出典:https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000046.000046095.html

何が転機になるのか分かりませんね。

とはいえ、
篠原さんは、
当時小室哲哉さんのことを知らなかった。
と言います。

 

「東京パフォーマンスドールのライブに、最近金髪の人来ているよねー。とうとうファンになったのかな?」なんてのほほーーんと話していたんだそう。
ちょっと面白い( ´艸`)

歌手として売れていたころ

「恋しさとせつなさと心強さと」で、オリコン初登場28位、発売2カ月後に1位に。シングル200マン枚以上のダブルミリオンを達成。

パラドル、篠原涼子から、一流歌手篠原涼子になった瞬間ですね。

でも篠原涼子さん自身は、

何がいいのかわからなかった。

何がいいのかが自分でわからなくなってきた。
2曲目「もっともっと・・・」で、もっと売れた。

それでも、分からなかったそうです。

それをさらに実感したのは、ほかの方の曲も歌ったそう。そしたらそれがあまり売れなくて・・・。

自分の力ではなかった?

小室さんの力なんだな。自分の力ってなにもなかったんだな。

売れたのは、自分の力ではないと思った時に、これは小室さんのちからだったんだなと思った時に、凄くショッキングで、歌手としての自分の力のなさに絶望し、小室さんの力ってすごい、便乗していただけなんだな。

自信を無くしたと言っていました。

わたし、

こんなんでいいのかな?と引退するべきではないのかな?

と芸能界引退も考えていたそうなんです。

けれども、「辞めようって思ったけど小心者なので辞められない」とも話していたそうです。
そんな時に相談したのは「父親」。

「父親にはいつも相談していた。」

引退の相談をしていた父親に、「いつでも帰ってきていいよ」という言葉をもらえたから、頑張れたと言っていました。

やはり、お父さんは偉大ですね。

実は演技が嫌いだった

歌手として行き詰っていた時に、転機が訪れたのは、1996年23歳のころ。
役者としての運命の出会いが訪れます。

ドラマ「なには金融道2」のヒロイン役。

「やります」

しかしながら撮影の最中、心の中では

「笑ったり泣いたりみんなウソついてよくできるよな。」

と、相変わらず演技に抵抗感。

嘘つきイメージ

 

というのも、高校の時に一度戦隊もので女優の仕事をやっていたんだそうで、そのころから演技には興味がなかったんだそうです。

そんな折、心ががわりする出来事があったそう。

撮影の休憩中にスタッフの方が確認映像を見て、

「涼子ちゃんていい演技するよね。さっきの芝居なんてすっごく自然。」

とすごく褒めてくれていたんだそう。

始めて自分自身が評価されていると感じた瞬間だったんですね。

そこから、演技を勉強さらに始めたんだそうですが、

やはり思っていないセリフを言うのってなんか気持ち悪いと感じ、演技への抵抗が拭いきれなかったそうです。

舞台「ハムレット」への出演がきっかけで

なんと、蜷川幸雄さんから直々に、ハムレットへの出演への出演を打診されたそうです。

演技への対抗間があった篠原涼子さんは、舞台なんてとてもムリ。と思ったそう。

蜷川幸雄さんと面談した時に、

正直なことを言ってもいいですか?と前置きした後、

「カツラかぶって大声出して、言いたくもないセリフを言って、無理です。
ぶたいってだけで蕁麻疹が出そうで、なのですみませんが、必例させていただきます。」

とそのまま席を立ったんだそう・・・。

凄すぎませんか?

東野さんも、「蜷川幸雄さんって怖い人だって知ってた?」とちょっとビビってました(笑)

でも、実は出演しているんですよね。篠原涼子さん。

1週間後くらいたってから、「あぁ、もうちょっと言い方を考えればよかったなぁ。大人げなかったなぁ感情ばかりで・・・」と反省し、ふと寝ようとしたときに、蜷川幸雄さんの顔がぽーんと頭に浮かんできてその顔が笑顔だったんだそうです。

出典:https://www.asahi.com/articles/ASJ5D63LHJ5DUCLV00M.html

その頭の中に浮かんだ蜷川幸雄さんの笑顔に「一緒に仕事したら何かいいことできそう、」と思い直し、蜷川幸雄さんに縁を感じて、出演を決めたそうです!!!

なんだか、導かれているような気がします( ´艸`)

旦那となる市村正親さんとの出会い

ハムレットの台本読み合わせの時、やっぱりすごく行きたくなかったんだそうです。

大本読むのも、ハキハキ言わないといけないんだろなーとか、
どーんと立ち上がって大きい声で立ち上がっていわないといけないんだろなぁ。。。

とか思っていたら、

隣の席に座った人が、どーーーんと立ち上がって、大げさにセリフを言ったんだそう。

この人とずっとやってくんだと思って・・やだなーと思ったら、それが、実は、

あとの旦那様となる市村正親さんだったんです。

あの、寝る前の蜷川幸雄さんの笑い顔が浮かばなかったら、出会ってもなく、結婚もしていなかったかも!です。

市村正親さんとは、4年後に結婚したんですね。

ともあれ、
蜷川幸雄さん演出の「ハムレット」で、演じる楽しさを知った篠原は
様々なドラマに出演するようになったといいます。

2005年 anego
2006年 アンフェア
2007年 ハケンの品格 日本アカデミー賞受賞
その他多数の映画・ドラマに出るようになり、国民的女優になっていったんですね。

まとめ

いろんなターニングポイントがあった篠原涼子さん

これから、たくさんのドラマへの出演、期待していますヾ(≧▽≦)ノ

 

ちょっと余談・・・

家では、市村正親さんがたくさんしゃべるんだそうで、篠原涼子さんは家だとほとんど黙っているんだそう。
そして、子供たちも話すとなると、ほとんどしゃべることはなさそうですね。
長男・次男・三男(旦那)の順番になっているようです。( ´艸`)
東野幸治さんが、「ダウンタウンのごっつえ感じ」とかやっていたのは、ためになっているの?という質問に
「なってる!」と本当に素で答えていた篠原涼子さん。こういうところがとっても素敵だなぁと思いました。

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会社員ゴンがつぶやいてるだけのブログ

コロナで世間がワサワサし始めてからはや1年。その間ほぼほぼ在宅勤務のゴン。
在宅勤務スタートから約半年は、それでも会社員という意識がけっこうあった(と思う)。 10か月も過ぎるころには、もう慣れすぎて堕落の一歩手前。
そんなゴンですが、会社に通っていた時より幸せ。(笑)
会社員から脱落しそうなゴンのブログですが、ヒマつぶしに読んでもらえたら嬉しいです。